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伊東忠太 | |
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出自國際建築協會編,美術出版社発行,「国際建築1954年5月号」1954年5月1日発行。 | |
出生 |
1867年11月21日 出羽國置賜郡米澤 (現・山形縣米澤市) |
逝世 |
1867年11月21日 東京都文京區 | (-87歲)
国籍 | 日本 |
母校 | 東京帝國大學 |
职业 | 建築家、建築史家 |
知名作品 |
東京商科大學兼松講堂 震災祈念堂 築地本願寺 |
奖项 |
勲二等瑞寶章 文化勲章 |
伊东忠太(1867年-1954年),號紅雲,日本建築師、建築史學家。東京大學工學部畢業,工學博士、東京帝國大學教授。著作包括:《日本建筑研究》、《东洋建筑研究》、《見學记行》、《中國建築史》等,代表理論為「建築進化論」,代表建築作品為築地本願寺。
生平
1867年(慶應3年)誕生於米澤(今:山形縣米澤市),1871年(明治4年) 進入藩學興讓館。1873年隨軍醫父親伊東祐前往東京,就讀番町小學;1878年父親擔任下總佐倉聯隊軍醫而前往佐倉,就讀鹿山小學;1879年就讀舊制鹿山中學校;1881年就讀東京外國語學校德語科;1885年就讀第一高等中学校,擔任鄉黨會發起人[1] 。
1892年(明治25年)從帝國大學工科大學畢業(現今東京大學工學部),同學包括山下啓次郎,其畢業論文為「建築哲學」,繼續就讀大學院(研究所)。1893年明治26年發表「法隆寺建築論」,對日本建築史的研究,在1896年擔任古社寺保存会委員;1897年擔任帝國大學工科大學講師,隔年成為造神宮技師兼内務技師;1899年任帝國大學工科大學助教授;1901-1902年開始遊歷中国、印度、土耳其;1905年經由歐美歸國,擔任東京帝國大學教授[1];1923年(大正12年)與鎌倉芳太郎進行琉球王國首里城正殿保存。1928年(昭和3年)從東京帝國大學退休,成為名譽教授,後任早稻田大學教授;1937年成為帝國藝術院會員;1943年獲頒文化勲章,是日本建築界第一人[2]。
1954年2月26日成為米澤市第一號名譽市民[2]。同年4月7日去世。
研究
- 圓柱收分線的希臘起源說:伊東忠太學位論文《法隆寺建築論》中考察奈良法隆寺,發現法隆寺中門的柱身收分與希臘建築的圓柱收分線類似,主張日本是絲路的終點[3],日本之美的原點是希臘,和歐洲之美同源同種[4]。
- 建築進化論的提出:為釐清法隆寺與希臘神殿間的關係、日本建築的起源,選擇到中國調查,發現中國雲岡石窟,更進一步到印度、土耳其、希臘、埃及、耶路撒冷,整整花了三年的時間調查[5]。他認為石造建築是由木造建築進化而來,日本建築也可能發展出日本固有的石柱造式[6]。
- 「建築」一詞的翻譯:將英文的Architecture翻譯為日文「造家」,也於1886年創立造家學會;1894年改翻譯為「建築」,1897年成立「建築學會」,1898年東京帝國大學工科大學造家學科改為建築學科[7]。
- 認為日本神社應是古典式設計的「神靈住居木造宮殿」,1923年東京發生關東大地震,1926年起擔任復興神社的設計顧問(設計監督大江新太郎),認為神社必須採用不燃、耐震的鋼筋混凝土構造。
主要作品
建築名 | 年代 | 所在地 | 現況 | 備註 |
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橿原神宮 | 1890年(明治23年) | 奈良縣橿原市 | 重要文化財 | |
平安神宮 | 1895年(明治8年) | 京都市左京區 | 重要文化財 | 共同設計 木子清敬・佐佐木岩次郎 |
豐國廟 | 1898年(明治31年) | 京都市東山區 | ||
台灣神宮 | 1901年(明治32年) | 台灣台北市 | 現不存 | 共同設計 武田五一。 |
舊神宮司廳舍 | 1903年(明治34年) | 三重縣伊勢市 | 共同設計 駒杵勤治。現・神宮道場 | |
宮崎神宮 | 1907年(明治40年) | 宮崎縣宮崎市 | 登錄文化財 | |
倫敦萬國博覧会日本館 | 1908年(明治41年) | 倫敦 | 現不存 | |
南部利祥像台座 | 1908年(明治41年) | 岩手縣盛岡市 | ||
淺野總一郎邸 | 1909年(明治42年) | 東京都港區 | 現不存 | |
二樂莊 | 1910年(明治43年) | 兵庫縣神戶市 | 現不存 | |
可睡斎護國塔 | 1910年(明治43年) | 靜岡縣袋井市 | 共同設計 佐野利器 | |
西村捨三像台座 | 1910年(明治43年) | 大阪市港區 | ||
入沢達吉邸 | 1911年(明治44年) | 東京都品川區 | 現不存 | |
樺太神社 | 1912年(明治45年) | 樺太豐原市 | 現不存 | |
真宗信徒生命保険 | 1912年(明治45年) | 京都市下京區 | 重要文化財 | 現本願寺伝道院 |
東京大學正門 | 1912年(明治45年) | 東京都文京區 | 登錄文化財 | |
中牟田家墓 | 1912年(明治45年) | 東京都港區 | ||
不忍弁天天竜門 | 1914年(大正3年) | 東京都台東區 | 現不存 | |
楠妣庵・観音堂・庵・墓 | 1914年(大正3年) | 大阪府富田林市 | ||
内務大臣等官邸 | 1914年(大正3年) | 東京 | 現不存 | |
龜岡文殊堂 | 1914年(大正3年) | 山形縣高畠町 | ||
弥彦神社 | 1916年(大正5年) | 新潟縣弥彦村 | 登錄文化財 | |
岐阜公園三重塔 | 1916年(大正5年) | 岐阜縣岐阜市 | 登錄文化財 | |
日泰寺佛舍利奉安塔 | 1918年(大正7年) | 愛知縣名古屋市 | 登錄文化財 | |
明治神宮 | 1920年(大正9年) | 東京都涉谷區 | 共同設計 佐野利器。社殿多在二次大戰爭燒毀,戰後重建。 | |
上杉神社社殿 | 1923年(大正12年) | 山形縣米澤市 | ||
總持寺放光観音台座 | 1923年(大正12年) | 神奈川縣横濱市 | 登錄文化財 | |
朝鮮神宮 | 1925年(大正14年) | 首爾 | 現不存 | |
弘誓院本堂 | 1927年(昭和2年) | 神奈川縣横濱市 | 現不存 | |
東京商科大學兼松講堂 | 1927年(昭和2年) | 東京都國立市 | 登録文化財 | 現・一橋大學兼松講堂 |
大倉集古館 | 1927年(昭和2年) | 東京都港區 | 登錄文化財 | 一部現存 |
祇園閣 | 1927年(昭和2年) | 京都市東山區 | 登錄文化財 | 原大倉喜八郎別邸一部分,現為大雲院 |
阪急梅田站中央大廳壁畫 | 1929年(昭和4年) | 大阪市北區 | 移建在阪急梅田本店13階餐廳 | |
古稀庵洋館 | 1929年(昭和4年) | 栃木縣矢板市 | 從小田原移築、現為山縣有朋記念館[1] | |
震災祈念堂 | 1930年(昭和5年) | 東京都墨田區 | 現・東京都慰靈堂本堂 | |
靖國神社遊就館 | 1930年(昭和5年) | 東京都千代田區 | 登錄文化財 | |
法華經寺聖教殿 | 1931年(昭和6年) | 千葉縣市川市 | ||
東京都復興記念館 | 1931年(昭和6年) | 東京都墨田區 | 共同設計 佐野利器 | |
靖国神社神門 | 東京都千代田區 | |||
靖国神社石鳥居 | 1934年(昭和9年) | 東京都千代田區 | ||
築地本願寺 | 1934年(昭和9年) | 東京都中央區 | 重要文化財 | |
最乗寺真殿・本堂 | 1934年(昭和9年) | 神奈川縣南足柄市 | ||
湯島聖堂 | 1934年(昭和9年) | 東京都千代田區 | ||
高麗神社 | 1935年(昭和10年) | 埼玉縣日高市 | ||
尾崎神社 | 1935年(昭和10年) | 岩手縣釜石市 | ||
新勝寺太子堂・開山堂 | 1936年(昭和11年) | 千葉縣成田市 | ||
今泉嘉一郎胸像所 | 1936年(昭和11年) | 群馬縣綠市 | 登錄文化財 | |
普光寺毘沙門堂 | 1937年(昭和12年) | 新潟縣南魚沼市 | ||
總持寺大僧堂 | 1937年(昭和12年) | 神奈川縣横濱市 | 登錄文化財 | |
明善寺本堂 | 1937年(昭和12年) | 山形縣山形市 | 登錄文化財 | |
俳聖殿 | 1941年(昭和16年) | 三重縣伊賀市 | 重要文化財 |
著作
- 余の漫画帖から 実業之日本社 1922年(大正11年)
- 琉球紀行 1925年(大正14年)
- 木片集 万里閣書房 1928年(昭和3年)
- 支那建築史 東洋史講座 第11巻 雄山閣 1931年(昭和6年)
- 神社建築に現れたる日本精神 日本文化協会出版部 1935年(昭和10年)
- 伊東忠太建築文献(全6巻) 1936-1937年(昭和11-12年)
- 法隆寺 創元社 1940年(昭和15年)
- 琉球-建築文化 1942年(昭和17年)
- 建築の学と芸 三笠書房 1942年(昭和17年)
- 支那建築装飾 東方文化学院 1941年(昭和16年)
- 白木黒木 北光書房 1943年(昭和18年)
- 日本建築の美 社寺建築を中心として 主婦之友社 1944年(昭和19年)
- 日本建築の実相 新太陽社 1944年(昭和19年)
- 西遊六万哩 北光書房 1947年(昭和22年)
- 伊東忠太著作集(全11巻) 1982-1983年(昭和57-58年)
軼事
代表作
參考來源
- ↑ 1.0 1.1 『日本美術年鑑』昭和30年版,頁174。
- ↑ 2.0 2.1 米沢の偉人 >伊東忠太
- ↑ 藤森照信, 増田彰久, 伊東忠太,《伊東忠太動物園》筑摩書房, 1995 ,頁34-35。
- ↑ 藤森照信,《日本近代建築》,五南出版,2008,頁223。
- ↑ 藤森照信,《日本近代建築》,五南出版,2008,頁225。
- ↑ 藤森照信,《日本近代建築》,五南出版,2008,頁226-227。
- ↑ 《図說日本文化史大系: 明治時代》小学館, 1956,頁291。
- ↑ 幻獣たちのいるところ。鬼才・伊東忠太が仕掛けた築地本願寺の動物を探せ
- ↑ 小野榮,《米沢藩》,現代書館, 2006,頁122。